オーストリア=ハンガリー二重帝国の皇妃エリザベート。
絶世の美女と知られ、現在も多くの人を魅了しています。
ウィーンの街を歩いていると、様々な場所で、エリザベートに出会います。
カフェには肖像画が飾られ、チョコレートや紅茶、雑貨などいたるところに彼女の肖像がみられます。
ホーフブルク宮殿(王宮)ではエリザベートのポスターや垂れ幕がありますし、
シシィ博物館なるものもあります。
(シシィはエリザベートの愛称)
肖像画からでもわかる、その美貌。
死後100年以上たってもウィーンに観光客を呼び寄せ、映画やミュージカルにもなって、人々を魅了し続けています。
美貌の皇妃
皇妃エリザベートは、19世紀のオーストリア帝国における輝かしい存在でした。
ハプスブルク家の歴代の皇妃の中でも抜群の美貌。
シシィ博物館には、彼女の部屋が再現され、身に着けた衣装や宝飾品が並んでいます。
豪華なドレスや装飾品を見ると、身長172㎝、体重48㎏、ウエスト50㎝という驚異のプロポーションがよくわかります。
バイエルン公爵の次女として生まれ、16歳で皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と結婚。
皇帝に見初められての結婚でしたが、窮屈な宮廷生活と、姑の大公妃との確執で精神をむしばまれます。
首都ウィーンを離れ、流浪を続けた末に、最期は暗殺されます。
肖像画に写る表情は繊細で、憂いを含んでいて、彼女の人生が幸福そのものではなかったことを表しているようです。
その美貌と数奇な運命が伝説のようになって、人々を引き付けてやまないのです。
自由奔放な少女時代
彼女は1837年にバイエルン王国で生まれました。
エリーザベト・アマリーエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハ(1837-1898)
ドイツ語の発音ではエリザベートではなく、エリーザベトが正確です。
彼女の美しさは幼少期から際立っていたと言われます。
生家のヴィッテルスバッハ家は名門の公爵家でしたが、彼女の父親で当主のマクシミリアン公爵は、他のお高い貴族とは一味違う、古いしきたりや偏見にとらわれない進歩的な人物で、陽気な芸術家肌の人間でした。
そんな父のもとで、育ったエリザベートは、美術や詩に興味を持ち、野生児のように野山を駆け巡り、動物と戯れる開放的で自由奔放な少女時代を過ごしました。
皇帝との運命の出会い
エリザベートの母ルドヴィカはバイエルン王家の出身でした。
彼女の姉妹たちはそれぞれ王室に嫁いでいましたが、自分だけが公爵夫人になったことに不満を抱えていたと言われています。
そこへ持ち上がったのが、シシィの姉ヘレーネと皇帝フランツ・ヨーゼフ1世との見合いです。
皇帝の母ゾフィーはルドヴィカの姉。
ルドヴィカにとってはこの上ない良縁。
皇帝の母にとっては、身分はいささか劣るけれど、妹の娘なら御しやすく、バイエルンは友好国なので悪くはない縁談でした。
1853年8月、ザルツブルグ近郊の高級保養地、バートイシュルにて23歳の皇帝フランツ・ヨーゼフとバイエルン公女ヘレーネの見合いが行われることになりました。
15歳のシシィは社交や儀礼を学ぶためにお供することになったのです。
おてんば娘にもそろそろ花嫁修業をさせようといういう母の思惑があったようです。
お茶の席で顔合わせが行われましたが、
緊張で固くなっていた姉ヘレーネに対し、シシィは天真爛漫。
リラックスして自然に振る舞い、童顔に栗色の髪で実に愛らしかったといいます。
フランツ・ヨーゼフは見合い相手ではなく、妹のエリザベートに釘付けになってしまいました。
真面目で実直。母に逆らったことのない若き皇帝でしたが、自らの意思でエリザベートを選んだのです。
その夜の舞踏会でシシィと踊り、いち早く花束をささげ、求婚したのです。
脇役だったシシィが1日にして主役になった瞬間でした。
婚礼とお妃教育
婚礼の支度は急ピッチで進められます。
ミュンヘンに帰ったシシィには早速お妃教育が待っていました。
礼儀作法、ダンス、フランス語、イタリア語などびっしりと詰まったスケジュール。
バイエルンの田舎娘を帝国の妃に仕立てるのですから大変です。
シシィは不安と疲れからヒステリックになって泣き出すこともあり、母は結婚式の延期を申し出るほどでした。
1854年4月、シシィは16歳で結婚、オーストリア帝国の皇后となりました。
当時の帝国は、外政は困難な中立の立場にありました。
ロシアとトルコが衝突の危機にある中、オーストリアはロシアに加担するように言われる一方、トルコ派のイギリス・フランスとも対立は避けたい状況でした。
内政に関しても三月革命以降皇帝から心が離れた市民の反乱がいつ起きてもおかしくないような状況。
内外の政情不安に対処しなければならない難しい立場にありました。
皇帝の母、ゾフィー大公妃は落日の帝国の威光をかろうじて守っている人でした。
自分の夫ではなく息子を皇帝にして、自分のすべてを帝国の栄光にささげています。
伝統、格式、儀礼を重んじる厳粛で格式ばった宮廷のしきたりを至上としていました。
ですが、そんな宮廷の厳格なしきたりは、シシィにとって煩わしいことばかり。
自由人だった父の気質を多く受け継ぎ、進歩的な考えの父の元、伝統や権威を嫌うシシィには、
姑のゾフィーは全くもって相いれない価値観の持ち主でした。
ゾフィーはシシィを立派な皇妃にするべく、ことあるごとに口出しをしますが、
16歳の花嫁は受け流せる余裕もなく、耐えられるはずもありませんでした。
新婚わずか2週間で、シシィは宮廷生活が息の詰まるもので、自由がなくなってしまったと嘆いています。
頼りの夫は幼いころから帝王学を受け、伝統と格式を体現する人間。
母に背くこともできず、妻を愛していてもただ2人の対立を黙ってみているだけでした。
子供の誕生と逃避の旅
結婚の翌年、長女が生まれます。
喜びもつかの間、子供は大公妃ゾフィーの元で育てられることになり、名前もゾフィーと名付けられました。
翌年次女ギーゼラを出産しますが、長女と同様、ゾフィーの手に渡ってしまいます。
すべてを義母に牛耳られ、発言権も決定権もなくただ皇妃らしく、威厳をもってふるまうことだけが求められました。
時折ウィーンの街に出かけてはビールを飲んだりタバコを吸ったり、馬に乗ってウィーンの森を疾走したり。
大胆で反抗的な行動に出ることがありましたが、
大公妃の怒りを買うだけで、2人の溝は深まるばかり。
それでもフランツ・ヨーゼフは妻を深く愛していましたし、シシィにとって頼れるのは夫だけでした。
ときに夫を懐柔して自分の要求を通すこともありました。
従順な息子が自分に逆らったことにゾフィーは怒り狂います。
シシィは姑に勝ったとわずかながら自尊心を満たしたのです。
夫に同行して統一の機運高まるイタリア、そして帝国内での不安分子であるハンガリーを訪問した際、
国民は若き皇妃の好意的な姿勢に、わずかながら態度を軟化させます。
シシィの功績と言っていいでしょう。
ですが、このとき、姑の反対を押し切って同行させた二人の娘のうち、
長女をわずか一晩のうちに赤痢で亡くします。
それみたことかと嘲り、非難するゾフィー。
自責の念に駆られ、心をうつろにするシシィ。
これ以降、子供の養育に一切かかわらなくなります。
それは、待望の皇太子ルドルフが産まれても変わりませんでした。
ゾフィーが次期皇帝にふさわしい立派な軍人にしようとそれまで以上に熱心に子育てをしても、
義母に立ち向かうことなく、失意の日々を送ることになります。
1860年、シシィは原因不明の熱が出たり、咳き込んだりして肺結核と診断されます。
医師から静養をすすめられたシシィはこれをチャンスと
大西洋の孤島、マデイラ島へと旅立ちます。
しかもゾフィーの手先の女官長は同行させません。
ウィーンを離れたことで、病の症状はすっかり落ち着き、温暖な気候で元気を取り戻します。
半年たってようやくウィーンに戻りますが、
宮廷の締め付けに耐え切れず、再び体調は悪化。
咳と発熱、不眠症……
また肺結核と診断されたシシィは今度はギリシャに旅立ちます。
ウィーンを離れるとけろりと体調は良くなるのです。
宮廷生活、皇后としての義務や職務から逃れて、国外に療養。
ここから生涯にわたって、さまざまな口実を見つけてはウィーンから逃避し続けます。
ハンガリー王妃
特にエリザベートにとって、心安らぐ最高の場所だったのは、ハンガリーでした。
ゾフィー大公妃がハンガリー人嫌いだったこともあってか、死ぬまでハンガリーを熱愛しました。
語学嫌いの彼女でしたが、短期間でハンガリー語を習得し、スピーチ、手紙、通訳までこなすようになります。また、大公妃ゾフィーの息のかかった家臣をクビにして、側近をハンガリー人で固めます。
中でも、女官長のイダは、シシィに献身的に仕え、2人は互いに尊敬し合い、信頼関係は死ぬまで続きました。
イダが仲介役となって、ハンガリー独立運動の指導者とエリザベートとの間で交渉が行われたとされています。
1866年、普墺戦争に敗れたオーストリアは、ドイツ連邦から離脱。孤立し、弱体化したオーストリアは、帝国の延命のために、自治権を要求するハンガリーと手を組む道を選びました。
その交渉にエリザベートの尽力があったことは言うまでもありません。
ハンガリー自治交渉の使節団の中に、穏健独立派のハンガリー貴族アンドラーシ伯爵がいました。
彼の野性味あふれる外見と自由な精神。どれも夫フランツ・ヨーゼフにはないものでした。エリザベートとアンドラーシ伯爵との間には、友情を超えたロマンスがあったと噂されます。
1867年、ハンガリーは自治権をもつ王国となります。君主はフランツ・ヨーゼフ。
「オーストリア=ハンガリー二重帝国」の誕生です。アンドラーシが初代首相となりました。
美へのこだわり
宮廷画家ヴィンターハルターが描いた3枚の肖像画はエリザベートの美しさを完璧にとらえています。
ダイヤの星の髪飾りと舞踏会の優雅なドレスの肖像画は、みやげものなど、ウィーンの街でいたるところで見ることができますし、日本にいても目にすることの多い肖像画です。
20代後半頃の彼女の写真も残っており、ヨーロッパ一の美女として名高い彼女の美しさを今に伝えてくれます。
人々は彼女の美貌を拝もうと躍起になりましたが、極端に人嫌いをする性格で公式行事への出席はめったになかったと言われています。
過激なダイエット
シシィは自分の美しさを十分に理解していました。
その美貌を保つために血のにじむような努力を重ねます。
常に低タンパク、低カロリー、低脂肪の食事。乳製品を主食として、生肉のジュース、時に野菜ジュースだけの断食も行いました。
食事だけでなく、過酷な運動も併せて行います。得意な乗馬に体操、水泳、フェンシング、数時間も一心不乱に速歩きをするなど体を酷使しました。
王宮内のエリザベートの部屋には彼女が使っていた体操用具が残されています。
特に髪へのこだわりがあり、「私は髪の奴隷」との言葉を残しています。
卵とコニャックでパックをしたり、何時間もかけて髪の手入れをさせました。
白い美肌を保つために果物や生肉でパックをしたり、オリーブオイルの風呂に入ったり。
痩身と美肌、美髪に良いものは何でも試していました。
美貌だけが心の支え
そんな極端な食事制限と過激な運動をするダイエットはシシィの身体と心をむしばみます。
今でいう摂食障害の症状で、躁鬱状態にありました。体も衰弱し、頻繁に貧血症状を起こします。
それでも自分の美のために努力や苦労を惜しみません。
細い体型、美しい髪、肌、その美貌。
それが彼女のすべてでした。あくなく美への執着。
孤立した宮廷生活で頼れるのは自分の美貌だけだったのです。
精神を病んだ彼女は自己陶酔に逃避するほかなかったのでしょう。
戦いの終わり
1872年、長年確執のあった大公妃ゾフィーが67歳で死去します。
2番目の息子マクシミリアンを、メキシコで革命軍により処刑される悲劇に見舞われた5年後のことでした。
最期まで帝国の威厳を保つこと、絶対主義を守ろうとする精神を貫きました。
シシィとの18年に及ぶ嫁姑戦争に終止符が打たれたわけです。
このときも旅に出ていたシシィでしたが、危篤の報に接しウィーンに帰還しました。
最期の夜、姑のそばで夜を明かし、息を引き取った際にさめざめと泣いていたと言われています。
ようやく姑の鎖から解き放たれたシシィ。
ですが、皇妃としての職務を果たすようにはなりませんでした。
変わらず旅から旅へという生活を送ります。
料理人や菓子職人まで70人もの廷臣をつれた大所帯の大旅行でした。
この頃彼女がのめり込んでいたのは乗馬。
ハンガリーや、妹がいるイギリスにまで遠征して狩りや乗馬を楽しみました。
シシィの乗馬は王侯貴族のたしなみの範囲を超えていて、障害物競争であったり、アクロバット競技など高度な技を必要とするものでした。
丘の急斜面や岩を超える危険な競技に自ら身を投じたのでした。
死の影
50代に入ったシシィを死の影が襲い、次々と別れが訪れます。
皇太子ルドルフの死
皇太子ルドルフは帝国流の軍人教育を受けて育てられましたが、
手荒なスパルタ教育により神経を崩壊させました。
内気で感受性が高い自由主義的な性格は、母エリザベート譲りであったとされています。
保守的で帝国にがんじがらめになっている父皇帝に幻滅したルドルフは、革新的な政策や自由主義を唱えて父と激しく対立します。
政略結婚した妻とはそりが合わず、女性関係も乱れていたと言われています。
将来を悲観したルドルフは憔悴し、ノイローゼに陥りました。そしてある日、ルドルフが投稿した自由主義的な主張を報道する新聞記事をきっかけに父子の対立は決定的なものとなります。
翌日、ルドルフはマイヤーリンクにある狩猟館に愛人のマリー・ヴェッツェラと共に向かいます。
そしてこのわずか17歳の少女を道連れに拳銃で自殺してしまうのです。
息子の悲劇的な死にシシィは茫然自失となりました。
墓所で棺に取りすがって泣き崩れたと言われています。
家族・親友の死
この悲劇の3年前、魂の友とも言われる従弟バイエルン国王ルートヴィヒ2世が原因不明の死を遂げ、
3か月前には父マクシミリアン公爵が死去。
事件の翌年には長年の友人アンドラーシ伯爵、姉ヘレーネ、母ルドヴィカを亡くしています。
愛する人たちを次々と亡くし、失意にくれた彼女は、以後ずっと喪服を着続け、死ぬまで脱ぐことはありませんでした。
美貌にも衰えがみられ、老いた姿を人目にさらしたくなかった彼女は常に扇やヴェールで顔を隠していました。
この頃の写真や肖像画は残っていません。
さすらいの旅とその終わり
ぬけがらのようになったエリザベートはさすらいの旅を加速させます。
旅から旅へ。一ヶ所に落ち着くことなどできません。
たまにウィーンに戻ってもすぐにどこかへ旅立ってしまいます。
一所にとどまれない
この頃、エリザベートはギリシア文化に傾倒していました。
コルフ島にギリシア神殿を模した豪華な別荘を建て、崇拝する詩人ハイネの像を建てたりもしました。
ですが、わずか3か月ほどの滞在でヨーロッパ各地や地中海の各国をさすらう旅に出てしまします。
さまようように、かろうじて生きているだけの存在。
一所にとどまることができず、とにかくじっとしていることができませんでした。
荒波の中をあえて航海したり、1日に何時間も意味もなく歩き回ったり。
奇行ともいえる行動で、精神錯乱を噂されるほどでした。
皇妃暗殺
1898年9月、シシィはスイスレマン湖のほとりで過ごしていました。
湖畔の澄んだ空気と温泉療養の効果で、穏やかな気持ちでいたようです。滞在先のホテルを出て、街に戻る船に乗ろうとした時、すれ違いざまに一人の男がぶつかってきました。
エリザベートは再び立ち上がり、そのまま船に乗り込みます。
しかし、みるみるうちに顔色が悪くなり、意識を失います。
女官が胸を開くと、コインほどのシミがあり、刺されたことにようやく気づいたのです。
凶器は、鋭く研ぎ澄まされた短剣のようなヤスリ。
犯人はイタリア人のルイジ・ルケーニ。
主義主張のある政治活動家でもない無職の放浪者でした。
こうしてエリザベートは60年の生涯に幕を下ろします。
皇妃エリザベートの歴史的評価
皇妃暗殺というショッキングなニュース。
ウィーンの人々は衝撃を受けました。ですが、それは「私たちの皇帝」フランツ・ヨーゼフに対する同情の方が大きかったといわれています。
帝国のために身をささげ黙々と職務をこなす皇帝に対し、
流浪を重ね、義務を果たさない皇妃のことにすでに市民は失望しきっていたのです。
フランツ・ヨーゼフは1916年第一次世界大戦のさなかに死去。
彼の死とともにハプスブルク帝国は終焉を迎えます。
エリザベートは亡きハプスブルク帝国の最期の輝きを想起させる存在として、伝説にも似た存在になっています。
彼女の美しさ、独自の個性、そして自由への渇望。
姑との確執、夫や子供たちとの関係、
伝統との向き合い方。
現代に生きる女性にも通じる問題にシシィは直面しました。
その向き合い方が正しかったとは言えませんが、様々な生きづらさを抱える人たちの興味をそそる生き様だったといえるでしょう。
そのためエリザベートの生涯は文学、映画、芸術など様々な形で表現され、現代人を惹きつけ、今もなおも興味の的となっているのです。
『皇妃エリザベートの人生~ハプスブルクの華~』
落日のハプスブルク帝国で最期に咲いた華。
おとぎ話のような結婚と、苦悩に満ちた人生。
逃避につぐ逃避の旅。
エリザベートの人生をひも解き、彼女の生きた意味を探ります。
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